クロスロード・50代で大きく変わった私の人生観。

今の自分って日々の選択肢、過去に何を選んできたかでできた結果であーる。

抗がん剤治療→緩和ケアへ治療方針変更。

退院して1週間で体力低下があり、自力で玄関の階段降りれず

受診行くのに救急車呼びました。この間も父とすったもんだあったけど。

歩けるやろ、、など。(母の現実を受容してないんやな)

ギリギリまで父の言い分聞いて、もう危ないで。無理やろ?と。

 

そして、血液検査その他問診、食事量、などもろもろ聞き取りの結果

主治医より「延命目的の抗がん剤治療は中止」体力が持たないのと

「リスクしかない」とはっきり言われました。

今後の治療方針を変更します。

入院するのだけは嫌だと言い張る母に

自宅で、と受け入れる覚悟をして帰ってきましたが

父と私の温度差により私の疲労とストレスが

このあとマックスに。

なんでやねん!!と。。。

 

ひたすら、主人に愚痴や苦しさを泣きながら訴える電話をかけまくって

主人も「おれはどうすりゃいいの?」てなってたと思う。

 

無理なんやったら最初から「無理」で施設で仕方なかったのを

自分で「やる」って選んだんやから。

 

それを選択したのは自分

 

確かに。

 

なんも言えんかった。父に対するストレスをひたすら抱えて

父にあたりちらしたり

してた。。。

 

父ができる事まで自分で抱え込んでしまったのかも。

心切り替えた。

ちょっと気持ち軽くなった。

あとは、母の財産がどこにいくらあるの?という

生々しい話になってくるが

凍結したらめちゃ大変なのでできるだけ早く定期預金の解約

証券の解約を父に促していくのが私にできる事かな。

あとは私の主人に喪服の用意をしておいて、と。

 

これで、長生きしてくれたら

笑い話で済むしね。

お母さんの人生は実にドラマチックだ!

きっつくなったら二人で笑い飛ばすことにした。

 

つづく

 

末期癌の母。退院して一週間経ちました。

はっきり言います。

お父ちゃん一人では今の母のお世話。無理っクス。

もちろん、できる範囲で頑張ってくれてるけど

自分の昼食にはビール飲んで、お母さん不穏になってきたり

排泄で難しくなったら

「ちょっとこれこれの用事あるし上に上がります」

私がしんどい部分を請け負う形に。

 

命預かってる責任感とストレスと疲労が一気に私を襲う。

そして食事は父が考えたできあいの簡単なメニュー。そんなの食べたくないし。

せめて食べるもの位自分で選ばせてよ。

涙が出てくる。お母さんが痛みに苦しむ姿を見ながら排泄ケアしてる

この状況で涙が止まらない。お母さんも泣いている。

「ごめんね・・ごめんね・・」

「私こそごめん・・」そんな事言いながらお母さんの肩を抱き寄せる。

 

父も私に負担かけまいと気遣ってくれてるのはわかるが、ちょっと

ボタンがかけちがってるんだよね。

そういう小さなストレスが敏感になるので

父に嫌気がさす前に、言いにくい事も言っておこう。

 

母の寿命のろうそくが消えかかっていること。

寝起き、排泄すべて軽く「やっといて」というけど

痛みに配慮して何時間もかかる事、私一人ではとても背負えないこと。

最後の看取りまで覚悟決めたけど、壮絶すぎてこちらが壊れる時はごめんなさい

みれない、という事。泣きながら訴えた。

財産をちゃんと解約なり移しておく時期だよ、という事も。

 

やっと現実受け入れたようで少し母との時間向き合うようになってくれた。

 

先日、一週間ぶりに旦那君が私の持ってきてほしいリストに答えて

色々持って来てくれた。

 

でも、日々壮絶な状態を電話で聞いてくれてるので

母に面会するには重すぎたのか、そのまま私を車に乗せて

ランチに。でも顔がひきつってうまく笑えない。

 

疲労している私に彼は「もういいよ、帰ってこい。」とは言わなかった。

「自分でそれを選んだんやし。」「そんなんできるんも今のうちやしな」と

あくまでも選択肢を私に渡してくれてる。

 

ありがとう。

明日は抗がん剤治療のための受診だ。

これを書いてる今も母は隣の部屋で傷みに呻き、ベッドで叫んでいる。

医療麻薬を痛み止めで服用しているのだが

効いてこなくなってきたし

このゾーンに入ると、冷たいようだがしばらくは何をしてもむくわれないため

この痛みが去るまで何もできない、と悟った。

 

最初は傍にいて手を握ったり声かけたり

立ったり座ったりして母に寄り添っていた。

でも、顔は苦痛に歪み、本来の母ではない人格になる。

見えないものが見えたり、急に「何?」と言ったり。

頭がズシンと痛くなって、すごくストレスがかかっているのが

実感できた。

 

大好きな母、そして父。

痛いよう~~~痛いよう~~~

うううう、、と絞り出す声をずっと目の当たりにする現状。

もう決めよう。

 

自分が帰る場所(自分の家。自分の人生。自分の大切な人の所へ)

もう今月いっぱいで、きっと限界値を超える。

 

そんな一日のわずかな時間、息抜きに軽くジョギング。

外の空気をいっぱい吸って。

旦那君と電話で何気ない話をした。

ありがたいな、冬の寒い空気も空の青も。

自然が一瞬で癒してくれた。

今日も一日命をありがとう。

 

末期癌の母退院して3日後のカンファ

母が退院して3日後。

従来のケアマネ、福祉用具、デイ、そして新しいご縁でつながった

訪問看護ステーション。

この方々が在宅生活をサポートしてくれるワンチームだ。

しかしながら、デイサービス再開には体力的に至らずいったん終了に。

 

「今は、治療に専念しようね。」

 

母のADLといえば、まだギリギリ少しだけど食事もできるし

車いす使用しつつも手伝えばトイレで排泄も可能だ。

冗談も言える。疼痛が来たら飲むようにと処方された

薬(医療麻薬)一日1包で落ち着いていた。

 

夜もよく寝られた。かえって母との時間が愛おしい位だ。

こんな風に私達姉妹を大きくしてくれたんやね、と

パジャマの着替えからパンツの履き替え、排便の処理。

嫌がる母をなだめたり

褒めたりしながら自尊心を傷つけないように介助する。

 

長年、介護の仕事に携わってきた経験値が最大限活かされる場面だけど

あくまでも。母と娘。

私は介護の職員ではない。

 

「ねぇお母さん。これまで私が離婚して子育てに苦しかった時、

たくさん助けてくれたやん?

そのお礼やねんで。だからここにいるんやで。」

 

手助けされたくない母の、心にやわらかく寄り添う。

時々、涙が出そうになる。いや勝手に涙が出た。「お母さん」と心の声で呼ぶ。

涙をごまかすために他の用事を探した。

 

父は父でちょっと腹立つ位にマイペースだけど、

まだ泣かないように、平常心で

踏ん張っているんだと思う。

 

退院してすぐだけど家の中の色々を整えたりで大変だったな。

母は「宜しくお願いします」と。

控えめに笑顔を作って皆さんに挨拶していた。

 

まず、今何が必要で何が必要でないか。

希望的観測も否定しないけど、やっぱり「今」に向き合って

現実を受け入れる事。

父はあくまでも「希望的観測」で考えていて

「現実」の「今」を受容するのには酷だったと思う。

 

私が覆水でパンパンの体の母のオムツをベッドで介助するのを

もう父に見せてもいいかな、と思うまでに時間はかからなかった。

 

訪問看護の初の訪問時。

酸素値低いのと足先の浮腫ひどくて、もう今からでも病院行った方がいい、

という助言にも

母は頑張り、手足を温めて呼吸整えたら酸素の数値をあげた。

ナースのマッサージで足の血色も少し改善した。

やり方見て、私でもできる。翌日からひざ下のオイルマッサージをして

手先を温めた。

 

そして寝室を移動。その隣に私も寝る事にしたけど

その夜が壮絶すぎて。。

癌末期の疼痛って。。魂から絞りだすようなうめき声と叫び。

痛み止めを夜中に飲ませたり、起きて手を取ったり

お茶飲ませたり、なだめたりするも

その発する声は母から聞いたことない苦痛で壮絶なものだった。

少し寝る時間も、母もあらゆる姿が夢に出てくる。

ベッドをギャッジアップしすぎて九の字になって私を呼ぶ夢や

ハイになって玄関前を掃除しだす母の姿が夢に出てくる。

そのたびに頭が痛くなり、気づけば明け方になっていた。

 

身体の介助は父では難しいので

ほぼ私のワンオペだったので

正直、これはやばいな、自分。て思った。

当事者にならないとわからない現実が私を襲った。

お母さんを守りたい。

でもその前に私が壊れるかも。

 

さて、、、、どうしたもんか。。

 

 

いきなりの余命宣告。母がステージ4の末期癌と言われて。

2023年10月某日。長らくの検査結果が出た。

主治医から説明があるので、その日は娘さんも同席して欲しい、との事で

仕事を休んで実家へ戻り両親と病院へ。

 

なんやろなー、癌かな~。手術せなあかんのかな。など

心の準備はしていったつもりだった。

そこで主治医から検査の経緯の丁寧な説明があり

「ここから厳しい話になります」

 

「え?」

・・・・

 

一瞬頭が真っ白になった。

母も車いすに乗って聞いていたが、他人事のようにキョトンとしていた。

父も動揺を隠せない様子で思わず口走った。

 


「治療しなければ年を越せないってことですか・・・?」

 

胃癌ステージ4。全身に回っており、胃の切除で治るレベルでない事

このままだと余命は3か月。治療したら余命1年。でもこれは平均値です。

もっと長く生きられる人もいますから。と。

 

しかし治療するには年齢や体力、食べられているか、など、条件があり

お母さんは79歳で迷ってる時間ないです。食べられている今なら

治療できるギリギリのタイミングです、どうしますか?

 

その場でイエスかノーか出さなければならず

父と私は「お願いします!」と抗癌剤治療の選択をした。

 

では、と。

 

2日後の入院説明とその後の説明受けて

いったん帰宅。

 

信じられない。

その1週間前までお友達と居酒屋で楽しく飲んでたり

海外に住む妹が帰国して晩餐楽しんでた位なので。

 

確かに足の痛みはずっとあって。

一人での外出は厳しかった。父が付き添ってた。

骨折してからの後遺症にしては長いよね、と

 

今思えば、癌が悪さしてたのか。

 

とにかく入院。

在宅に向けての抗癌剤治療が始まった。

幸い、面会はできるので父にとっては良かったようだが、81歳。

汚れた着替えを持ち帰り

洗濯してまた持参しての毎日、母と会える喜びはあったと思うが

痛みと闘う母との面会。正直きつかったと思う。

私はいったん和歌山に帰り仕事に戻った。

 

しかしながらこの事きっかけに私は介護休業取得した。

介護職ゆえに、社長の理解得られ休業提案早くて感謝してる。

 

退院日。割と元気そうな表情で笑顔で病院を後にした。

その日の晩餐は鰻丼少々とビール一口飲めて、びっくり!

やっぱ家が一番やね~!と

笑いあったが、その後、壮絶な日々が待ってるとは

この時、想像していなかった。

 

これは末期癌の親を自宅で、と

選択した母自身の想いと父、そして私(長女)の

リアルな体験談です。残しておきたくて。

また同じ境遇の人がいたら、ぜひ力になれたらと。

書き下ろします。